「包丁は研がないと、心も鈍る」
私は、包丁を研ぐ音が好きだ。
シャッ、シャッ、と静かな夜の台所に響く。
何も考えず、ただ刃と砥石がこすれる音を聞いていると、不思議と心が落ち着く。
――そういえば、この感覚、救命士のころと似ている。

救命士に成りたての頃、出動のない夜勤の合間に、救急バッグの中を何度も点検していた。
酸素ボンベ、心電図モニター、薬品。
「何も起こらない夜」が一番いい。
でも、だからこそ準備だけは怠れなかった。
包丁も同じだ。
切れ味が悪いと、余計な力が入って、ケガをする。
仕事も人生も、心が鈍れば判断を誤る。
だから時々、自分を“研ぐ時間”が必要なんだと思う。
俺は50を過ぎてから、中小企業診断士の勉強を始めた。
「今さら資格?」「そんなに頑張らなくても」――周りはそう言った。
でも、俺はわかっていた。
心を研がないと、鈍っていく。
経験に甘えて、同じところをぐるぐる回る人生になる。
研ぐって、実は地味な作業だ。
努力しても、すぐに結果なんて出ない。
でも、続けているうちに“スッ”と手応えを感じる瞬間がある。
その感覚が、たまらなく嬉しい。

料理の包丁も、人生の心も、使い続けるほど摩耗する。
放っておけば、切れ味は落ちていく。
だからこそ、手を止めて研ぐ時間を持たなきゃいけない。
それは休むことでもあり、整えることでもある。
子どもたちには、こう伝えたい。
「焦らなくていい。時間をかけて、自分を磨け。」
効率よりも、丁寧さのほうが人生を豊かにする。
包丁も、人間も、急にピカピカにはならない。
今日も、研ぎ終わった包丁で野菜を切る。
“スッ”と切れるその感覚に、自分の心も研がれた気がする。
――包丁は研がないと、心も鈍る。
そう思いながら、俺は明日も砥石を手に取る。
磨くのは、刃じゃない。
生き方そのものなんだ。

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